SSブログ
「『証巻』を読む」その93 ブログトップ

畢竟(ひっきょう)成仏の道路 [「『証巻』を読む」その93]

(10)畢竟(ひっきょう)成仏の道路

この文で目を引きますは、「かの仏国」は「畢竟成仏の道路」であり、「無上の方便」であるとされていることです。

ここでまた「畢竟」ということばが登場してきました。ここまでの『論註』の文のなかに何度かこの「畢竟」が出てきて、大事な役割をしてきました。まず「かの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩(初地から七地までの菩薩)、畢竟じて平等法身を得証す」という『浄土論』のことばについて丁寧な注釈がありましたし(第5回の4)、また「(願生の菩薩は)みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし」と述べられていました(第8回の4)。「畢竟」とは「いまはまだそうではないが、いづれかならずそうなる」ということで、ここで「畢竟成仏」と言われていますのは、「いまはまだ成仏していないが、いづれかならず仏になる」という意味です。

さて、この文で言われていますのは、法蔵菩薩が「作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ」るのは、「畢竟成仏」のための「無上の方便」であるということです。すなわち、法蔵が一切の衆生を浄土に往生させようと願うのは、ついにはかならず成仏させたいと思うから、ということです。ここで思い起こしたいのは第十一願です。「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚(じょうじゅ、正定聚)に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」の「かならず滅度に至る(必至滅度)」が「畢竟成仏」ということです。そして「かならず滅度に至る」ことが「正定聚に住す」ることに他なりません。正定聚とは「かならず仏となるべき身」のことですから。

問題は「かの安楽仏国に生ずる」ことと「畢竟成仏」の関係です。しばしば往生と成仏は同じであるとされますが(往生即成仏)、その前提に往生は来生であるという通念があります。成仏が「畢竟」あるいは「必至」であるように、往生もまた「畢竟」であり「必至」であるとされるのです。これまで親鸞はそう考えていないことを繰り返し述べてきましたが、曇鸞もまたここで「かの安楽仏国に生ずる」ことは、「畢竟成仏」のための「無上の方便」であり、信心を得たそのときに「かの安楽仏国に生じ」、「畢竟成仏の道路」を歩むのであると明言しています。

(第9回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『証巻』を読む」その93 ブログトップ