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矛盾について(その335) ブログトップ

7月4日(月) [矛盾について(その335)]

 自分の救いとともに自分以外の人々の救いを等しく求めるという構造は、どの宗教にも多かれ少なかれ備わっています。ここから布教ということが宗教の本質とみなされることになります。そしてまたさまざまな軋轢がそこから生まれることになるのです。
 近くにキリスト教の教会があり、そこの信者さんでしょうか、ときどき一軒一軒訪ねて布教活動をされます。そして大半の家で「お断りします」とか「関心ありませんから」と締め出されています。ぼくもお断りしながら、相手のことを思って辛い気持ちになります。どうしてこんな大変なことをやらねばならないのかと思ってしまうのです。
 さてここで考えたいのは、誰かに教えを伝えたいと思うのに、相手から「あなたがそう信じるのは自由ですが、わたしはそんなことを信じることができません」と拒否されたときのことです。ぼくに「関心ありませんから」とすげなく断られたキリスト教信者の方のこころの内はどんなものか。
 ここでまた親鸞のことばを参照したいと思います。『歎異抄』第6条です。「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづか(り)て念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり(何とも嘆かわしいことです)」。
 「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」―これは何を意味するのでしょう。専修念仏には布教はないということになるのでしょうか。「ひとへに弥陀の御もよほしにあづか(り)て念仏まう」すのだから、もう布教は要らないということでしょうか。そうではないでしょう。自分がその教えを信じることと自分以外の人たちにそれを手渡すことは等しく大事なことです。ただ、どんなに一生懸命教えを広めようとも、それを誰かが受け止めるかどうかは「ひとへに弥陀の御もよほし」にかかっているということです。


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