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「親鸞とともに」その33 ブログトップ

はじめに [「親鸞とともに」その33]

第3回 聞こえるということ

(1)はじめに

「帰っておいで」という「ほとけ」のよびごえが聞こえるということについて述べてきましたが、ここに浄土の教えが凝縮されていると言えます。そこで今度は「聞こえる」に着目したいと思います。浄土真宗では「信心正因」と言われます。本願を信じることが往生の正因であるということですが、この「信じる」というのが「聞こえる」ということに他なりません。本願を信じるとは、われらが本願に信心とよばれる何かをつけ加えることではありません。ただ本願のよびごえが聞こえてきて、それが胸にしみること、これが本願を信じることです。ですから信心正因とは本願のよびごえが聞こえることそのものが往生の因であるという意味です。「帰っておいで」というよびごえが聞こえることが、とりもなおさず往生するということです。

本願のよびごえ(親鸞のことばでは「本願招喚の勅命」)が聞こえることが本願を信じことであるということ、そして本願を信じることが往生の因であるという二つのことを言いました。まず後者の「信心が往生の因」ということについてもう少し述べておきたいと思います。よく「信じるだけで往生できるのですか」あるいは「念仏するだけで往生できるのですか」という疑問が出されます。これはいまにはじまったことではなく、浄土の教えが生まれた当初からずっとつきまとってきた疑問です。これは「往生ってそんなに簡単にできるものですか」という疑問ですが、ここには根本的なボタンの掛け違いがあります。その行き違いを生み出す元は「因」ということばです。

「信心が往生の因である」は「信心すれば往生できる」と言い換えることができますが、これは二通りに理解できます。一つは「信心することが取りも直さず往生すること」という理解で、二つには「信心することにより往生できる」ということです。金子大栄氏の分かりやすい例に置き換えますと、「人に親切すれば幸せになれる」ということばは、「親切することが取りも直さず幸せである」という意味と、「親切することにより幸せになれる」という意味の二通りの解釈が可能です。前者は「親切することそのものが幸せである」という意味で、後者は「いま親切をしておけば、のちに幸せがやってくる」という意味です。ボランティア活動することそのものが幸せというのと、ボランティア活動しておけばきっと幸せがやってくるというのとの違いです。


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