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二河白道 [『末燈鈔』を読む(その46)]

(7)二河白道

 そこで「この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすでに如来とひとしければ」と「身とこころ」の区別が持ち出されます。しかし、ぼくらは、その身とともに、こころも不浄ではないでしょうか。煩悩というのはこころの穢れに他なりません。貪欲、瞋恚、愚痴の三毒はすべてこころの穢れです。としますと、信心のひとは如来とひとしいとはどういうことか。
 善導の「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」ということばが引かれます。身は穢土にあっても、こころはすでに浄土にいると言うのですが、さてそう言われても、分かったようでよく分からない。そこでこれまた善導の「二河白道の譬え」を取り上げて、身は穢土にあってもこころは浄土とはどういうことかを考えてみましょう。
 「ひとありて西に向かひてゆかんとするに百千の里ならん。忽然として中路にふたつの河あり。一にはこれ火の河、南にあり。二にはこれ水の河、北にあり。二河おのおのひろさ百歩、おのおの深くして底なし。南北のほとりなし。まさしく水火の中間に、ひとつの白道あり。ひろさ四五寸ばかりなるべし。この道、ひんがしの岸より西の岸に至るに、また長さ百歩。その水の波浪まじはりすぎて道をうるほす。その火焔また来たりて道を焼く。水火あひまじはりてつねにして休息することなけん。」
 古来この譬えはしばしば絵にあらわされてきました。世界は幅百歩(30メートルほどでしょうか)の水火の河で東西に二分されています。東岸は穢土で、西岸は浄土です。そしてその両岸をつなぐように幅四五寸(15センチほど)の白い道があります。北側は水の河、南は火の河で、道の両側から波浪と火焔がかぶさってきます。何とも危うい道ですが、西に向かう旅人は後ろから群賊悪獣にせめたてられ、こう思うのです、「すなはちみづから思念すらく、われいまかへるともまた死せん、住するともまた死せん、ゆくともまた死せん」と。


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