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真実と虚妄 [「『証巻』を読む」その88]

(5)真実と虚妄

さて本文の「巧方便回向(ぎょうほうべんえこう)」ですが、こう言われます、菩薩は「実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄の相を知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり」と。前にも言ったと思いますが、菩薩とは「菩提薩埵(ぼだいさった)」を略したもので「bodhisattva」の音訳です。「bodhi」とは「菩提」すなわち「ほとけの覚り」で、「sattva」は「衆生」ですから、菩薩は「ほとけ」と「衆生」を媒介するものということです。すなわち菩薩は「わたしのいのち」であるがままで「ほとけのいのち」であることに目覚めており、「わたしのいのち」としては「虚妄」の中にありますが、同時に「ほとけのいのち」としては「実相」の中にあるわけです。

注目したいのは「実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知る」と言われていることです。真実を知るがゆえに虚妄を知るということを考えるために、ここでまた「嘘つきのパラドクス」を持ち出しましょう。「ぼくは嘘つきです」という言明にはどうしようもない撞着があります。この言明が正しいとしますと、この言明自体が嘘であることになり、その人は嘘つきではなくなってしまいます。しかし、だからと言ってこの言明をナンセンスと一蹴するわけにはいきません。そう言っている本人はここに真実があると思っているでしょうから。一体どう考えればいいのでしょう。

この人は自分が嘘の世界にいると感じていますが、それがかりそめのものではないとしますと、それと同時に自分は真実の世界にいるとも感じているはずです。前回でも言ったことですが(第8回の3)、ここは闇の世界だと感じる人は、光の世界も同時に感じています。生まれてこの方ずっと闇の世界に暮らしてきた深海魚は、ここは闇の世界だと感じることはありません。光の世界でないのはもちろんですが、闇の世界でもない、ただのノッペラボーです。そのように、自分は嘘の世界にいると感じるとき、その人は真実の世界にいるとも感じています。真実の世界を感じるからこそ、嘘の世界にいることを感じることができるのです。

「ぼくは嘘つきです」という言明に真実があるとすれば、そう言っているのが嘘つきの自分ではなく、真実の自分だからです。


タグ:親鸞を読む
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