SSブログ
『観無量寿経』精読(その11) ブログトップ

囚われの気づき [『観無量寿経』精読(その11)]

(11)囚われの気づき

 かくして穢土とよばれる世界がどこかに客観的にあるわけではないことがはっきりしました。ここは穢土だと気づいて、そう気づいた人にはじめてここが穢土として姿をあらわすということであり、それは、これは我執(わがものへの囚われ)だと気づいて、そう気づいた人にはじめて我執が存在するようになるのと同じことです。そして大事なことは、「囚われている」ことに気づいたとき、すでにその囚われから解放されているということです。心が何かに囚われていることの本質は、それに気づいていないことにあり、気づいたときにはもう囚われていません。
 さてしかし話が複雑なのは、我執は「ああ、これは囚われだ」と気づいてもすっかり消えてしまうわけではないということです。何かに囚われているとき、これは囚われだと気づきますと、もう囚われから解放されていると言ったばかりですが、我執という囚われは、「ああ、これは囚われだ」と気づいても、それからすっかり解放されることはないのです。そのことは「わたしのいのち」を考えてみれば明らかです。われらは何の疑問もなく、これは「わたしのいのち」だと思って生きていますが、このことは生きることの根本前提であり、これを手放すことは生きることを手放すことです。
 では我執に気づくとはどういうことかといいますと、これまでは何も思うことなく、ただひたすら「わたしのいのち」を生きてきたのですが、あるときふと「ああ、これまで“わたしのいのち”に囚われてきたのだ」と気づくのです。このいのちは「わがもの」であるとしがみついて生きてきたことに気づくのですが、そのとき何がおこるか。ひとつには、これは囚われだと気づくことで、もう囚われから抜け出しています。でも、依然として「わたしのいのち」にしがみついています。囚われだと気づきながら、依然として囚われている。もう抜け出していながら、まだ抜け出していないという何ともすっきりしない状況にあります。
 これを「片足だけ抜け出す」ということもできます。片足はしっかり我執の中にありますが、もう片足はすでに我執から抜け出しているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『観無量寿経』精読(その11) ブログトップ