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八十億劫の生死の罪を除き [『観無量寿経』精読(その26)]

(14)八十億劫の生死の罪を除き

 「われへの囚われ」こそわれら人間の根源的な罪(キリスト教で言うところの原罪)ですが、何度も述べてきましたように、われらはそれに気づくことができるだけで、それを滅除することはできません。ところがここで「八十億劫の生死の罪を除き」と言われます。そしてこれ以後、同様の言い回しが何度も繰り返されますが、これをどう理解すればいいのかを考えておきましょう。結論を先取りしておきますと、「八十億劫の生死の罪を除き」とは、「われへの囚われ」という罪が滅除されるのではなく、それが人間の根源的な罪であると気づくことにより、もう罪としてのはたらきをしなくなるということです。
 すぐ前のところでこう言いました、何かに気づくとは、これまで気づいていなかった事実に気づくだけで、事実そのものには何の変化もないと。いまの場合、「われへの囚われ」という事実は何も変わりませんが、それに気づくことで世界のありようが変わり、その結果として生き方が変わってきます。「われへの囚われ」に気づくとは、これまでまったく意識することなくひたすら「わたしのいのち」を生きてきたことに気づくことです。これは「わたしのいのち」であるとして、何の根拠もなくすべての上においてきたことに気づく。
 さて「われへの囚われ」を「われ」が気づくことはできません。「われへの囚われ」の気づきはもちろん「われ」に起りますが、「われ」が起こすことはできません。なぜなら、「われ」は「われへの囚われ」の中にどっぷり浸っているからです。したがって、その気づきは外からやってくるしかありませんが、「わたしのいのち」の外は「無我のいのち」でしかなく、それを「ほとけのいのち」ということができます。これまでひたすら「わたしのいのち」を生きてきたと気づくことは、同時に「ほとけのいのち」に気づくということです。闇に気づくことは、同時に光に気づくことです。
 「われへの囚われ」という根源的な罪に気づくことは、「ほとけのいのち」に気づくことであり、もう罪としてのはたらきがなくなります。これが「あんじん」を得るということであり、「八十億劫の生死の罪を除く」ということです。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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