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諸仏の称名 [親鸞の手紙を読む(その40)]

(11)諸仏の称名

 「信心のひとは如来とひとし」を裏づける経文として、まず『華厳経』から「信心歓喜者与諸如来等(信心歓喜するものは、もろもろの如来とひとし)という文を引いていますが、これは正確には「聞此法信心歓喜無疑者速成無上道与諸如来等(この法を聞きて信心を歓喜して疑いなきは速やかに無上道をならん。もろもろの如来とひとしとなり)」となっているのを短く言い換えたと思われます。『浄土和讃』の「諸経和讃」に「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ」と詠っているのも、この経文にもとづいています。
 ふたつ目は『無量寿経』の「見敬得大慶則我善親友(見て敬い、得て大いに慶はば、すなはちわが善き親友なり)」という文ですが、これはすでに第2通に「しかれば、この信心の人を、釈迦如来は、わがしたしきともなり、とよろこびまします。この信心の人を真の仏弟子といへり」というように出ていました。さて、一つ目の「もろもろの如来とひとし」も、この「わが善き親友」も、それ以上何の解説も必要ありませんが、問題は三つ目の文です。どうしてこれが「信心のひとは如来とひとし」を裏づける経文であるのか、すぐには見えてきません。
 改めて第17願をみますと、「設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚(たとひわれ仏をえんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずば正覚をとらじ)」とあり、十方世界の無数の諸仏がみなことごとくわが名号を褒めたたえて一切の衆生に聞かせることがなければわたしは仏とならない、というのです。「諸仏称名の願」とよばれ、親鸞は『行巻』においてこの願をもとに称名念仏はまず諸仏からはじまることを明らかにしています。
 われらが称名念仏するより前に、諸仏の称名があるということ。それがわれらのもとに届けられ、「聞其名号、信心歓喜、乃至一念(その名号をききて、信心歓喜し、ないし一念せん)」(第18願成就文)となります。諸仏の称名が衆生の聞名となり、その聞名がただちに称名となるということ。われらの称名は諸仏の称名がこだましているのだということです。さてしかし、そのことがどうして「信心のひとは如来とひとし」とつながるのか、これが問題です。

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