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プライバシー [『一念多念文意』を読む(その61)]

(4)プライバシー

 あの大震災のとき避難所となった体育館には(そして今度の熊本でも)、ダンボールで隣との境界となるとともに多少とも目隠しの役割をする壁が作られていきました。それをテレビで見ているぼくらに、プライバシーのない生活の辛さがヒシヒシと伝わってきました。しかし、どうしてぼくらにとってプライバシーがかくも大事なのでしょう。
 群れをつくる野生動物たちを見ていますと、彼らにプライバシーを守ろうという意識があるとは思えません。敵から隠れることはもちろんありますが、お互いの目から隠れようとはしていないようです。彼らには「わたし」がないと思わざるをえません。彼らにも自他の区別はあるでしょう。アメーバだって自他の区別はできるはずです。しかしそれと「わたし」とは違います。
 プライバシーは私生活とか個人の秘密という意味ですが、プライベートのもとの意味は私有、「わたしのもの」ということで、そこから「ひとの目から隠さねばならない秘密」という意味が生じてきます。ぼくら人間には「わたし」があるが、動物にはないというのは、この「わたしのもの」という観念のことのようです。ぼくらには「わたしのもの」があり、それは他のひとには秘密にしておきたい。
 動物にだって「わたしのもの」の観念があるのではないかという疑問が出るでしょう。トラが仕留めた獲物を食べているときに、他のトラが近づいてくると牙をむき出して威嚇しますが、あれは「これはオレのものだ」と言っているのではないか。そのようにも思えますが、よく見ると、腹いっぱい食べたら、まだたくさん残っていても、惜しげもなくその場を去っていきます。としますと、あの威嚇はたんに「オレの食事を邪魔するな」ということで、「これはオレのものだから横から取るな」と言っているのではなさそうです。

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