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遇ふて空しくすぐるものなし [『教行信証』精読(その108)]

(6)遇ふて空しくすぐるものなし

 未知のものに遇い、どうして「ああ、これだ、これを待っていたのだ」と思えるのか。考えられる答えはひとつです。実は、遠いむかしにすでに遇っているのです。ところが、それをすっかり忘れてしまっている。忘れてしまったこと自体を忘れているのです。ですから、これまで遇ったことがないと思うのですが、実はすでに遇っているのです。だからこそ、あるときそれを思い出して、「あゝ、これだ、これを待っていた」と思うのです。まったく同じことをプラトンが言っています。ぼくらはどうして美しいものを見て、「あゝ、美しい」と思うのだろうか、と。
 美しいとはどういうことか、美しいものとそうでないものとを見分けるにはどうしたらいいか、などということを誰からも教わった覚えはないのに、どうして美しいものを「あゝ、美しい」と感嘆することができるのか。プラトンは答えます、「それは、この世に生まれてくる前に、美しさの原型(これをプラトンはイデアとよびます)を目の当たりにしていたのだ。ところがこの世に生まれてくるときに、それをすっかり忘れてしまったのだ」と。そして美しいものに出あったとき、すっかり忘れていた美のイデアを思い起こして、「あゝ、なんて美しいのか」と感嘆するのだと。
 本願力に遇うのも同じです。これまで遇ったことがないのに、「あゝ、遇えた、これをずっと待っていた」と思うのは、実は遠いむかしに(前世に?)本願力に遇っていたからに違いありません。そして遠いむかしにすでに本願力に遇っていたということは、それはもうずっと自分の中にありつづけているということに他なりません。それはもうこころの奥深くに届いているのです。ただそれをすっかり忘れてしまって、そんなものが自分の中にあるなどと思いもしない。ところがある日突然それを思い出すのです。これが本願力に遇うということで、そのときもうとうのむかしに遇っていたことに気づきます。遇ひがたくして「いま」遇ふことをえたのですが、実は「すでに」遇ふことができていたのです。
 安楽国に生ぜんと願ずるのは「いま」ですが、それに先立ち「すでに」そのように願われていたということです。そして「すでに」そのように願われているということは、その願いはもう成就されているということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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