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よびごえ [「親鸞とともに」その31]

(7)よびごえ

「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」から生まれてきて、また「ほとけのいのち」へと帰ると言いましたが、「わたしのいのち」として生きているときから、実は「ほとけのいのち」を生きているのです。ただその「ほとけのいのち」に「わたし」という名札をつけているだけのことで、「わたしのいのち」が終わるというのはその名札が外れるということに過ぎません。ところがわれらはどういうわけか「わたしのいのち」というものがそれ自体として存在していると思い込んでいますから、それはいずこより来りて、いずこに去っていくのかについて思い煩うことになります。ある人は無より来りて無に去っていくと言い、ある人は輪廻転生していくのだと言います。いずれにしても、いずこに去るのかという不安を抱えて生きていかざるをえません。

浄土の教えは、そのことについて「わたしのいのち」が生まれてきたもとの「ほとけのいのち」に帰っていくのだと言います。しかし、われらはそのことをどのようにして知ることができるのでしょう。「わたしのいのち」がそれ自体として存在していると思い込んでいるものが、どのようにして「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」であり、だから「ほとけにいのち」に帰っていくのだと気づくことができるのでしょう。それが先ほどから述べてきました「南無阿弥陀仏」で、これがそのことに気づかせてくれるのです。「南無阿弥陀仏」とは「帰っておいで」という不思議な声であると言ってきましたが、それは「おまえのいのちの故郷である『ほとけのいのち』に帰っておいで」というよびごえです。

このよびごえが聞こえてはじめて「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」の故郷であり、またそこに帰っていくことに気づくのですが、さて、このよびごえはどこからやってくるのでしょう。「ほとけのいのち」からとしか考えられませんが、「ほとけのいのち」とは「無量のいのち(アミタユス、阿弥陀仏)」ですから、そこから直接よびごえが届くことはありません。「無量のいのち」はわれら「有量のいのち」から超絶しています。としますと、その声はいったいどこからやってくるのでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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