SSブログ
「親鸞とともに」その122 ブログトップ

その名号を聞きて [「親鸞とともに」その122]

(6)その名号を聞きて

「その名号」とは言うまでもなく「南無阿弥陀仏」の「こえ」のことです。十方の諸仏が阿弥陀仏の本願(「いのち、みな生きらるべし」)を讃えて「南無阿弥陀仏」と称える、その「こえ」が聞こえてくるということ、それが「その名号を聞きて」ということですが、そのときが永遠の「いま」です。その名号が聞こえることが本願に遇うことができたことであり、本願に遇うとは「ほとけのいのち」に遇うことに他なりません。時間のなかに「よこさま」に「ほとけのいのち(無量のいのち)」があらわれたということ、これが永遠の「いま」ということです。

そして、その「いま」は「信心歓喜」の「いま」です。名号が聞こえ、それによって信心歓喜するのではありません(それでは原因・結果の関係になります)、名号が聞こえることは、それがそのまま信心歓喜することです。すなわちこの二つは同時因果であるということです。次に「かの国に生ぜんと願ずる(願生彼国)」ことも「聞其名号」の「いま」のことです。「聞其名号」とは「帰っておいで」というよびごえが聞こえることですが、それにそのまま「はい、ただいま」と応ずることが「願生彼国」です。つまり「聞其名号」と「願生彼国」もまた同時因果です。

これで終わりではありません、さらに「すなわち往生を得(即得往生)」もまた「聞其名号」の「いま」に入ってきます。そのことは「すなはち」という一語があらわしています。これは差し当たり、「かの国に生ぜんと願ずる」ことが「すなはち」かの国に生ずることであるという意味ですが、さらに遡って「その名号を聞く」ことが「すなはち」浄土に往生することであるということでもあります。このように「聞其名号」の「いま」に「信心歓喜」も「願生彼国」も「即得往生」もみな入り、この四つは「たてさま」にではなく「よこさま」に並ぶということです。

最後の「即得往生」が、「聞其名号」の「いま」が救いの「いま」であることを如実にあらわしています。往生とは救いに他なりません。


タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その122 ブログトップ