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民衆の阿片 [「親鸞とともに」その20]

(20)民衆の阿片

若きマルクスはこう言います、「宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である」と(『ヘーゲル法哲学批判序説』、城塚登訳)。言っていることは明らかでしょう。宗教とは虐げられたものたちが逃げ込む砦であり、それは阿片のような役割をしているということです。そこからマルクスはさらにこう言います、「民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。…宗教への批判は、宗教を後光とする涙の谷(悲惨な現実)への批判の萌しをはらんでいる」と。

宗教は幻想的な幸福を与えるものであり、それを批判することは、幻想的な幸福に代えて現実的な幸福を与えることでなければならないということです。ここに真理の一端があることは間違いありません。多くの宗教がマルクスのいうように、現実的な幸福の代わりに幻想的な幸福を約束し、そのことによって現実の悲惨を覆い隠す役割を果たしていると言わなければなりません。これは現実の悲惨を生みだしている政治経済体制を擁護する結果となっています。浄土真宗も、そのような役割を果たし、現実の悲惨を生みだしている政治経済体制を支えていた時期がありました。言うまでもありません、戦前の軍国主義時代のことです。

これまで、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に生かされていることに目覚めることで、それぞれが与えられたいのちに安んずることができ、「たまたま」このいのちを与えられたことが何とも「ありがたい(あることかたい)」と思えるようになると述べてきました。これが宗教の救いであると。これだけを見ますと、「たまたま」与えられたいのちがどのようなものであれ、いまここで生かされていることが何とも「ありがたい」と安んずることが救いであるとして、結果として現状に甘んじ、それをより良くしていくことが等閑になってしまうように思えるかもしれません。それではマルクスのいうように「民衆の阿片」ではないかと言われるかもしれません。

これはしかし宗教の否定的な一面にすぎません。ほんものの宗教にはもうひとつの面があることを忘れるわけにはいきません。


タグ:親鸞を読む
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