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恩徳讃 [親鸞最晩年の和讃を読む(その62)]

(9)恩徳讃

 正像末法和讃の最後に、いわゆる「恩徳讃」がおかれます。

 如来大悲の恩徳は
  身を粉にしても報ずべし
  師主知識の恩徳も
  ほねをくだきても謝すべし(59)

 このあまりにも有名なうたのもとになっているのが聖覚法印の文であることが『尊号真像銘文』から分かります。聖覚は「つらつら(法然上人の)教授の恩徳をおもふに、まことに弥陀悲願にひとしきもの」であるゆえに、「身を粉にしてこれを報ずべし、身を摧きてこれを謝すべし(粉骨可報之摧身可謝之)」と述べているのです。ここで「如来の恩」、「師主の恩」ということについて考えてみたいと思います。
 「恩」という字を字典で調べますと、「心と因(たよる)とをあわせて、人に情けをかけて、たよりにさせる意味をあらわす」とあり、「めぐむ」「情けをかける」の意とされます(角川最新漢和辞典)。さらに「因」を調べますと、「大(大の字型になっている人)と口(敷物)とを合わせた字。人が敷物の上に寝るようすをあらわす。そこから、あるものを下にふまえる、何かをもとにする意味に使う」(同)とあります。
 このところあいつぐ自然災害で住む家を失くし、不便な避難所生活を余儀なくされる人の姿をテレビを通して見ることが多くなりました。そんな生活を強いられる人たちを思いますと、家の畳の上で大の字になって寝ることのできる有り難さを痛感します。そこから、われらがこの世界のなかで安心して生きるということは、大の字になって寝る場所があるということ、そういう場所にめぐまれることであり、それが「恩」ということであることがよく了解できます。
 われらは如来から、そして師主から、本願名号という、その上で大の字になって寝ることができる場所をめぐまれたのですから、「身を粉にしても報ずべし」であり、「ほねをくだきても謝すべし」ではありませんか。

                (第7回 完)

タグ:親鸞を読む
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