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至心に回向せしめたまへり [『教行信証』「信巻」を読む(その29)]

(9)至心に回向せしめたまへり


 もうお気づきでしょう、すでに『如来会』の第十八願の読みにおいて同じことがありました(4)。普通の読みでは「おのれが所有の善根、心々に回向して、わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん」となるところを、親鸞はおのれが所有の善根、心々に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん」と読んでいました。そうすることで「心々に回向」する主体を「われら衆生」から「法蔵菩薩」へと転換したのですが、ここでもまったく同じように、「至心に回向」する主体を「われら」から「阿弥陀仏」へ付け替えています。われらがさまざまな善根を回向して往生を願うのではなく、如来がもてる徳のすべてを回向してくださることで往生することができるのだと読んでいるのです。


ためしに成就文を「至心に回向して、かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得」と読んでみましょう。こう読みますと、どうして「かの国に生ぜんと願ぜば、〈すなはち〉往生を得」と言えるのかという疑問が生まれざるをえません。往生を願うだけで、それが「すなはち」かなうと言えるのはなぜかという疑問です。比叡山の黒谷別所にいた法然が本願念仏の教えにひかれながら、最後の一歩を踏み出せずにいたのは、この疑問を抱えていたからではないでしょうか。


そこでこの文を親鸞のように、「至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得」と読んでみましょう。そうしますと、どうして往生を願うだけで「すなはち往生を得」ることができることが了解できます。それは「(如来がすでに)至心に回向せしめたまへる」からです。曽我量深氏がどこかでこの文について、「至心に回向せしめたまへり」の後に「がゆえに」という語を補って読むべきであると言われています。如来が至心に回向してくださっているがゆえに、われらが往生を願えばそれだけでもう往生することができるのです。


『如来会』の成就文「よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して無量寿国に生ぜんと願ぜば」という読み方も、普通は「よく一念の浄信を発して歓喜愛楽し、所有の善根回向して無量寿国に生ぜんと願ぜば」となるところを、回向の主体を如来として読み替えています。これまでと同じことですのでもう繰り返す必要はないでしょう。



タグ:親鸞を読む
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