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恥ずべし、傷むべし [『歎異抄』ふたたび(その81)]

(2)恥ずべし、傷むべし


 自分を正直にさらけ出す、己のこころのうちを包み隠さずに明かす、ということについてもう少し考えてみましょう。


日本の数ある僧のなかで親鸞という人ほど、自分を正直にさらけ出した人はいないのではないかと思えるほど、いたるところで己のこころのうちを包み隠すことなく明かしています。真っ先に頭に浮ぶのが『教行信証』「信巻」の一節です。真の仏弟子とは何かを論じてきたと思いきや(『教行信証』は浄土の真実の教えについて論じる堂々とした理論書であるにもかかわらず)、突然、次のように悲歎するのです、「まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし傷むべし」と。


もうひとつ印象的なものを上げますと、親鸞最晩年の和讃集である『正像末和讃』の末尾の一首に、「是非しらず邪正もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」とあります。是非善悪が分かるわけでもなく、慈悲のこころなどありもしないのに、人前に立ってとくとくと教えを説くのは名利の思いからではないかと己を恥じているのです。多くの弟子たちに敬慕され、あとはもう死を迎えるのみという時に至っても、「ああ、オレはこれまで名利に人師を好んできたのではないか」と己を恥じるというのはどういう人だろうと思います。


このあいだのことです、ある方がこう言われました。「情けは人の為ならず」ということばがあるが、これは人に親切しておくと回りまわって自分に返ってくるということで、自分本位のいやらしさがある。では、人に親切すること自体が喜びだから親切するというのはどうかと考えてみると、これもおのれ自身の喜びを求めているのだから大同小異ではないか、と。人に親切するといいながら、結局のところ、どこまでも自分本位ではないだろうかと言われるのです。この方も親鸞と同じように己のなかに潜む醜いものをじっと見つめ、それを包み隠していることができないのです。



タグ:親鸞を読む
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