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生死に回入して衆生を教化する [『教行信証』「信巻」を読む(その79)]

(7)生死に回入して衆生を教化する



 回向発願心釈を締めくくり、さらに三心釈全体をまとめることばがきます。



 また一切の行者、行住坐臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解(げ)をなし、つねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また回向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化(きょうけ)する、また回向と名づくるなり。



三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、このことはりあることなしとなり(往生できないという道理はありません)。またこの三心、また定善の義を通摂(つうしょう、散善だけでなく定善にも通じる)すとしるべし。以上



 「つねにこの解をなし、つねにこの想をなす」の「この解」「この想」とは、貪愛・瞋憎の水火のなかで、弥陀の光明に摂取不捨されていると憶念することです。「わたしのいのち」という煩悩の海のなかにいながら、そのままですでに「ほとけのいのち」という本願の海に懐かれていると憶う、これが回向発願心です。さてここで善導は回向発願心にはもう一つの面があることを指摘します。それが「かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化する」するということです。言うまでもなくこれが還相で、『浄土論』の五念門のなかの第五門、「回向門」がこれです。



思えば「教巻」の頭に「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」とありました。回向発願には、自らの救い(往生)を願う面と、他の一切衆生の救いを願う面があり、この二つは切り離せないということです。なぜなら、自らと他の一切衆生は縦横無尽につながりあっており、「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」という関係にあるからです。このように自利と利他は一体不離であり、自らの救いを願うということは他の一切衆生の救いを願うことに他なりません。



さて問題はこの回向発願の主体は誰かということです。善導においては(そして『浄土論』の天親においても)、それはわれら行者ですが、親鸞は回向の主体を如来へとコペルニクス的に転回したのでした。



タグ:親鸞を読む
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