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回向発願心 [『教行信証』「信巻」を読む(その67)]

(5)回向発願心


 『観経疏』「散善義」の三心釈のつづきで、至誠心、深心のあと回向発願心についての注釈です。


 〈三者回向発願心〉。乃至 また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須(もち)ゐて得生の想(おもい)をなせ。この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊(はえ)せられず。ただこれ決定して一心に捉(と)つて正直(まっすぐ)に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱(こうにゃく、ひるみためらう)を生じて廻顧(えこ、ふりかえる)すれば、道に落ちて(道から落ちて)すなはち往生の大益を失するなり。


 回向発願心とは、経典では、そして善導においても、われらが回向して往生を願うという意味ですが、親鸞は例によってこれをコペルニクス的に転回し、如来の回向発願心とします。それが「かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ」という読みとなります。もとの文は「必須決定真実心中回向願作得生想」ですから、普通は「かならずすべからく決定して真実心のうちに回向し、願じて得生の想をなすべし」と読みますが、親鸞は回向の主体を「われら」から「如来」へと転換し、如来回向の願によって往生を得ることができると読むのです。かくして回向するのも発願するのもみな如来であり、われらはその回向発願心を賜ることで往生できるということになります。


回向発願心はわれら「に」おこりますが、われら「が」おこすのではなく、それは如来から賜るのであるということです。もし回向発願心をわれら「が」おこすのだとしますと、どうして「得生の想」をなすことができるのか理解できません。われらがどんなに回向し発願したとしても、それでかならず往生ができるという保証はどこにもありません。その保証が生まれるのは、回向し発願するのが如来であるときです。如来がわれらのために回向し、往生を発願してくださっているからこそ、かならず往生できるという想(おもい)が生まれるのです。



タグ:親鸞を読む
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