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他力といふは、如来の本願力なり [はじめての『尊号真像銘文』(その19)]

(2)他力といふは、如来の本願力なり

 『尊号真像銘文』には『無量寿経』から3つの文が取り上げられていますが、第18願の文につづいて2つ目の文がこれです。第18願は上巻にありますが、この文は下巻の往覲偈(おうごんげ、覲は「お目にかかる」の意で参勤交代の「勤」は本来この「覲」です。ここで往覲と言いますのは、十方諸国の菩薩衆が無量寿仏のみもとに赴き、お目にかかるということです)の中に出てきます。これまた短い文の中に浄土の教えの勘どころがビシッと決められています。
 まずは「其仏本願力(その仏の本願力)」ですが、「その仏」が阿弥陀仏を指すのは言うまでもないことで、大事なのは、ただの本願ではなく本願力とされている点です。ただ阿弥陀仏の願いがあるということではなく、それが見えない力としてわれらに働きかけているということ。先回の最後に、何か不思議な力がぼくらをマインド・コントロールから揺り起こしてくれ、そうしてはじめて「あゝ、マインド・コントロールだったのか」と目覚めることができると述べましたが、その不思議な力が本願力です。親鸞はそれを本願招喚の勅命と言っていました。
 「行巻」には「他力といふは、如来の本願力なり」とあり、そして親鸞は『論註』から次の文を引いています、「みな本願力よりおこるをもてなり。たとえば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし」と。阿修羅の琴は、それを弾く人がいなくても自然に妙なる音を出すといわれるのですが、そのように、本願力はぼくらを自然にマインド・コントロールから目覚めさせてくれるのです。そのことを次の「聞名欲往生(みなを聞きて往生せんと欲へば)」に見ていきましょう。
 「聞名」について親鸞はこう言っています、「聞といふは、如来のちかひの御なを信ずとまふす也」と。本願名号を聞くことがそれを信じることだと言うのです。南無阿弥陀仏が聞こえることが、もうそれを信じることだと。南無阿弥陀仏とは本願招喚の勅命でした。「帰っておいで」という呼び声です。この呼び声は、それが聞こえた後にそれを信じるかどうかを決めるのではありません。南無阿弥陀仏の声が聞こえることが取りも直さずそれを信じることであり、信じないというのは聞こえていないということです。

タグ:親鸞を読む
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