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『教行信証』精読(その122) ブログトップ

本文6 [『教行信証』精読(その122)]

(20)本文6

 これまで読んできました『論註』の文章はその上巻のはじめのところにあたり、『浄土論』冒頭の「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ修多羅の真実功徳相によりて、願偈総持を説きて、仏教と相応せん」という二行を注釈し終わっただけです。ところが次の引用文は一気に『論註』の下巻に飛び、五念門を注釈するなかで、その第五門、回向門について述べています。

 いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首(しゅ)として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑにとのたまへり。回向に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に廻施して、作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と。抄出

 (現代語訳) どのように回向するのでしょうか。苦悩するすべての衆生を見捨てることなく、回向を根本として慈悲のこころを実現しようと、いつもこころに願われているということです。回向に二種類あり、一つは往相の回向、二つは還相の回向です。往相回向とは、自身が修めた功徳をすべての衆生に施して、ともに阿弥陀如来の浄土に往生させようと願ってくださるということです。

 回向に往相と還相があるとあるのに、往相だけで途切れているのは、いまは往相について論じていて、還相はのちに「証巻」において取り上げようという親鸞の意向からであり、『論註』そのものはつづいて還相について述べています、「かの土に生じおはりて、奢摩他(しゃまた、止、禅定のこと)、毗婆舎那(びばしゃな、観、観察のこと)、方便力成就することをえて、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道にむかはしむるなり」と。要するに、往相とは浄土へ往く相(自身が救われる相)であり、還相は穢土に還り衆生済度する相(他の衆生が救われる相)ということです。


タグ:親鸞を読む
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