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たとえばピタゴラスの定理 [親鸞最晩年の和讃を読む(その9)]

(3)たとえばピタゴラスの定理

 たとえばピタゴラスの定理。「直角三角形の斜辺の長さの2乗は、他の2辺の2乗の和にひとしい」という真理ですが、これがぼくにとって印象的なのは、中学の時、若い数学の先生がこの定理を複雑な補助線を引いて証明してくれたのがいかにも鮮やかで、ぼくには幾何学というのはなんと素晴らしい学問だろうと思えたからです(この先生は少しして京大の大学院に入られ数学の研究者となっていかれましたが、その離任の挨拶で「カントという哲学者は死ぬとき“Das ist gut.これでよし”、と言ったそうだが、ぼくもそんなふうに言って死にたい」ということばを残して去っていかれました)。
 さて、この真理は、それを理解すること(それが真理であることを証明すること)によりはじめて存在するのではありませんし、もし理解できなければ存在しないということもありません。それを理解するのは誰かある特定の人ですが、その人が理解したからそれが存在するのではありません。逆に、それが真理として存在するからこそ、その人が理解することができるのです。そして、もしその人が理解できなくても、それは真理として存在します。しかし、これには反論が出されるかもしれません、ピタゴラスがその真理性を証明してはじめてそれは存在するのであり、もし誰もそれを真理として見出すことがなければ存在しないじゃないか、と。
 たしかに誰もこれを真理として見出すことがなければ、誰もそれを知りませんが(これは同義反復です)、だからといってその真理が存在しないということになりません。まだ誰も知らない真理は無数にあることでしょう。しかし誰かが(たとえばピタゴラスが)それを真理として見出しますと、それは誰にとっても真理であり、ある人がその真理性を理解できないからといって真理として存在しないわけではありません。これが普通の意味の真理であり、この真理においては、客観性、同じことですが、普遍妥当性が命です。スタップ細胞の存在が退けられたのは、その証明に普遍妥当性(誰であっても証明できるということ)が認められなかったからです。

タグ:親鸞を読む
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