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よきひとのおほせ [『歎異抄』を聞く(その25)]

(4)よきひとのおほせ

 「慈信坊どのは、自分は父上から直々に特別の教えを受けてきたと語っておられますが、それはほんとうのことでしょうか。もしそのような秘密の法があるのでしたら、われらにも是非とも教えていただきたいものです」と迫る人たちに対して、「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり」とピシャリとはねつける親鸞。もしそんなものがあるとお思いでしたら、南都北嶺にそうそうたる大学者たちがおられますから、その人たちにお聞きになるとよろしいと、これは親鸞としては最大級の否定でしょう。
 そして次の決定打がきます、「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。
 前にも述べましたが(第1回、8)、これをよきひと・法然聖人への全幅の信頼の表明とだけ受け取るのではまったく不十分です。わたしは法然上人を全面的に信頼していますから、上人の言われることは信じて疑いません、というだけでしたら、ただ親鸞と法然との個人的信頼関係でしかありません。それは親鸞の信心の根拠となりえても、前にいる弟子たちにとってはあずかり知らぬことと言わなければなりません。この一言が不審をいだいて聞き耳を立てている弟子たちに決定打となったとしますと(現に唯円にはこのことばが「耳の底に留まり」何十年と消えずに残ったのです)、そうした人と人の信頼を超えた何かがそこにあるに違いありません。
 「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」は法然の口をついて出たことばに相違ありません。しかしそれを聞いた親鸞にはもはやただの法然のことばではなかった。それは法然の口を借りてやってきた弥陀自身の声だったに違いありません。そして法然にとっても、それは自分の口から出てきたのは間違いないが、しかしもはや自分のことばなどではなく、どこかからやってきた弥陀の声だったに違いありません。さらに言うなら、親鸞の前にいる唯円も、親鸞のことばから弥陀の声を聞き取ったはずです。だからこそ、それが決定打となった。

タグ:親鸞を読む
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