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三忍を獲(う) [「『正信偈』ふたたび」その97]

(9)三忍を獲(う)

さて第4句の「韋提と等しく三忍を獲」です。『観経』で釈迦が韋提希に「かの国土の極妙(ごくみょう)の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」と告げるのですが、これを善導が注釈してこう言います、「これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍にたへん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく」と。この喜忍・悟忍・信忍が三忍で、無生法忍とは無生すなわち不生不滅の真実を悟ることを意味しますが、親鸞はこれに「不退の位とまうすなり、かならず仏となるべき身となるとなり」と注をつけています(『浄土和讃』「勢至讃」)。

これで言いますと、いまは「わたしのいのち」を生きていますが、この先かならず「ほとけのいのち」となるに違いないとよろこぶことが無生法忍で、先の「うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころ」のことです。どうしてこの先かならず「ほとけのいのち」になるに違いないと「さきだちてかねてよろこぶ」ことができるのかといいますと、実は現にいまもうすでに「ほとけのいのち」のなかに摂取され生かされているからであり、清沢満之が言うように、これはもう「私が毎日毎夜に実験しつつある所の幸福である」からです。これは未来のよろこびとは畢竟するに現在のよろこびに他ならないということに他なりません。

そもそも未来とは何かを考えてみましょう。われらは明日があることを疑いませんが、しかし一体どこにあるのでしょう。「決まっているじゃないか、それは今日という日が終わった後にある」と言われるでしょうが、さてでは今日という日が実際に終わったとしましょう、そこに明日はあるでしょうか。残念ながらそこにあるのはまたもや今日という日であり、明日ではありません。「いや、だから、今日という日の次の日が明日だよ」と言われても、その日に足を踏み入れることは永久にできません。としますと明日なんて日はそもそも存在しないのでしょうか。とんでもありません、われらは明日のない世界なんて考えることもできません。


タグ:親鸞を読む
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