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一人称単数 [正信偈と現代(その181)]

(2)一人称単数

 その点で際立つのが『歎異抄』です。この書物は親鸞の語り(御物語)を記録したものであることから、「親鸞」の名のりがしばしば出てきます。「親鸞にをきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて」(第2章)、「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」(第5章)、「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」(第6章)等々。『歎異抄』の最大の魅力は親鸞が一人称単数で語っているというところにあります。しかしどうして一人称単数の語りがひとの心にドシンと届くのでしょう。
 それを解く鍵が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という述懐にあります。
 ここはやはりキルケゴールのお出ましを願いましょう。「主体性が真理である」。これは彼が日記に書きつけた一節ですが、この短いことばにすべてが凝縮されているように思います。そのためにわたしが生き、そのためにわたしが死ぬことのできるような真理、それこそ真理の名に値するものだということです。「ひとへに親鸞一人がため」の真理とは、親鸞自身がそのために生き、そのために死ねる真理です。他の人にとってそれがどんな意味をもつかは問題ではない、ただこの「親鸞ひとり」にとって真理であればいい。「ひとへに親鸞一人がため」の真理を語ることが、不思議なことに、他の人のこころの奥底にドシンと届くのです。
 「われ」を主語として語るということで思い浮かぶのは清沢満之です。
  我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、
  我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉ず。
  我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲の為に迷(まどわ)さるること少なく、
  我、他力の救済を忘るるときは、我、物欲の為に迷さるること多し。
  我、他力の救済を念ずるときは、我が処する所に光明照し、
  我、他力の救済を忘るるときは、我が処する所に黒闇覆う。(「他力の救済」)
 この文は、満之が亡くなる二か月前に書いたものですが、彼の信心のありようが目に見えるようで感動的です。

タグ:親鸞を読む
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