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八十億劫の生死の罪を除き [『教行信証』精読2(その52)]

(20)八十億劫の生死の罪を除き

 顧みますと、善導のあと、法照、憬興、張掄、慶文、元照、戒度、用欽とつづき、そしてここで嘉祥、法位、飛錫が取り上げられますから、合わせて10人(慈愍と慈雲を入れれば12人)の傍依の諸師が顔をそろえたことになります。その宗派も、律宗、法相宗、天台宗、三論宗、禅宗とほぼすべてを網羅しています。この時代(唐代から宋代)の中国仏教界において浄土の教えがいかに注目されていたかがよく分かります。みな口をそろえて念仏のすばらしさを讃嘆するのですが、ここではとりわけ滅罪の功徳に注目されています。すでに善導がそれを滅罪増上縁として取り上げていましたが、あらためて念仏と滅罪について考えてみようと思います。
 関係する経文は『観経』下下品の「仏の名を称うるがゆえに、念々の中において、八十億劫の生死の罪を除き云々」ですが、この文言をそのまま受け取り、これまで積もりに積もった罪という罪が念仏することできれいさっぱり消えてしまうと理解していいのでしょうか。そして、どうしてそんなことがおこるかといえば、念仏することが「仏の無量の功徳を念ずる」(嘉祥)ことだからであり、同じことですが、「名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し」(法位)てくれるからでしょうか。これまた文字通りにそのまま受け取っていいものでしょうか。
 これが、弥陀の名号にはあらゆる功徳がつまっているから、それを称えることでそこにつまっている功徳をわがものとすることができるという意味だとしますと、念仏は霊験あらたかな呪文であることになりますが、余人はいざ知らず、親鸞がそのようなことをいうわけがありません。呪文というのは何かの利益(家内安全、病気平癒など)をえるために称えるものですが、親鸞にとって名号はこちらが称えるより前にむこうから聞こえてくるものであるということ、むこうから呼びかけられるから、それにこだまするように応えるのであること、ここに両者をはっきり分けるメルクマールがあります。

タグ:親鸞を読む
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