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修証一等 [『一念多念文意』を読む(その41)]

(11)修証一等

 さて次に、「ただいま」の中には「これから」も入っているということ。
 「ただいま」聞こえた本願の声は何と言っているか。「かならず往生できます」と言っているのでした。「ただいま」は往生が約束されただけで、実際に往生するのは「これから」のことです。目の前にひろがる生死の大海をこえて、浄土の岸につかなければなりません。とするならば「これから」にこそ意味があるのではないか。
 さてしかし「ただいま」聞こえた本願の声「かならず浄土の岸に着けます」には十劫の時間(つまり永遠)が折り畳まれているのです。ということは、まだ浄土の岸に着いていないとはいえ、もう着いたも同然ではないでしょうか。ここはまだ生死の海ですが、そのままでもう涅槃の海にひとしいのではないでしょうか。
 これが「ただいま」の中に「これから」があるということです。「ただいま」はそのままで「これから」だと言いますと、いかにも矛盾した言い回しですが、しかし「ただいま」生死の海にいることの中に、もう「これから」浄土の岸に着くことが折り畳まれて収まっているのです。「ただいま」の中に「もうすでに」が詰まっていたように、「これから」もまたしっかり詰まっているということです。ふと思い出すことがあります。道元の「修証一等」です。
 道元は『弁道話』の中でこんな問答をしています(意を取って訳します)。
 問い:坐禅は悟りを得るために行うものですから、もう悟りを得た人は坐禅をする必要がないのではないでしょうか。悟りを得た後も坐禅をすることにどんな意味があるのでしょう。
 答え:そのように思うのは、坐禅という修行と悟りという証果を別ものと考えているからです。仏法においては修行と証果とはひとつです(これが修証一等)。坐禅することがそのまま悟りを得ることであり、悟りを得ることが座禅することです。坐禅は悟りの手段ではありません。

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