SSブログ
『教行信証』「信巻」を読む(その75) ブログトップ

かの願力の道に乗じて [『教行信証』「信巻」を読む(その75)]

(3)かの願力の道に乗じて


「二河白道の譬え」がさらにつづきます


〈無人空迥の沢(むにんくうきょうのさわ、人のいない荒野)〉といふは、すなはちつねに悪友(あくう)に随ひて真の善知識に値(あ)はざるに喩ふ。〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎(しんぞう)は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋(とんじん)煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強き(こわき、てごわい)によるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微(み、かすか)なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また〈水波つねに道をうるほす〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚(ぜんわ)するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌(しんけん)の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かう〉といふは、すなはちもろもろの行業を回して(ひるがえして)ただちに西方に向かふに喩ふ。〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解(けんげ)をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふ。〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏(まと)ひて、解脱するに由なし。仰いで釈迦発遣(はっけん)して、指(おし)へて西方に向へたまふことを蒙(かぶ)り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意(おんこころ)に信順して、水火の二河を顧みず、念々にわするることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。



タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』「信巻」を読む(その75) ブログトップ