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“look”と“see”(つづき) [生きる意味(その86)]

(17)“look”と“see”(つづき)
 「ぼくが桜の老大樹を見る“look at”」場合、ぼくは老大樹を辺りの景色から切り取っています。老大樹をカメラに収めようとする時は、全体からあるアングルを切り取っているのです。
 それに対して「桜の老大樹が見える“see”」場合、気がつくともうすでに老大樹自身がぼくのカンバスに描かれています。その時、ぼくが桜の老大樹を眺めているというよりも、妙な表現ですが、桜の老大樹が老大樹自身を眺めていると言うべきではないでしょうか。
 ぼくがいて老大樹があるのではなく、老大樹はぼくであり、ぼくは老大樹です。老大樹とぼくが一体として存在そのものです。だから、ぼくが老大樹に見ほれているのではなく、存在そのものが存在そのものに見ほれているのです。
 こうも言えるでしょうか。老大樹はぼくという鏡に老大樹自身を映し出しているのだと。そしてぼくもまた老大樹という鏡にぼく自身を映し出しているのです。ある禅師は「尽十方世界 是一顆明珠」(世界は一個の光る珠だよ)と言ったそうですが、一個の光る珠の中で老大樹とぼくが互いに互いを映し出しているイメージが浮かびます。
 「ぼくが桜の老大樹を見る」が「知る」で、「桜の老大樹が見える」が「感じられる」であることは言うまでもないでしょう。
 前者において、「見る“look at”」ことと「老大樹」の間には<すきま>があります。ですから、老大樹を見るのに飽きたら、今度はアングルをその背後に広がる景色に切り替えることができます。ぼくのカンバスにどんな絵を描くかは自由です。
 ところが後者においては、「見える“see”」ことと「老大樹」との間に<すきま>がなく切り離せません。ぼくというカンバスは老大樹に占領されていますから、カンバスから老大樹を切り取ろうと思ったら、カンバスそのものが切り取られてしまいます。

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