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7月28日(日) [はじめての親鸞(その212)]

 生きる目的は「わたし」が与えることができても、生きる意味は与えることができない、それには「あなた」が必要、これまでずっとこのことを述べてきました。ぼくらは人生の岐路において右すべきか左すべきかを自分で決める自由がありますが、自分で決めることそのものに意味があるかどうかは「あなた」しか決めることができません。
 「あなた」が「そのまま生きていていい」と言ってくれるかどうか、すべてはここにかかっています。「わたし」が百万遍「生きる意味がある」と称えても腹が減るだけで何の足しにもなりません。「あなた」からひと言「生きる意味がある」という声が聞こえることが必要なのです。
 ある方からいただいた年賀状に「両手広げ よちよちわれに 走り来る 孫という名の 南無阿弥陀仏」という歌がありました。その場の情景がありありと目に浮かびます。「おじいちゃん」とよびながら、危なっかしい足取りで、それでも一生懸命に走り寄る孫の姿に目を細める。そのときの「おじいちゃん」の声が「そのまま生きていていいよ」と聞こえ、確かに生きる意味が届けられたのです。(完)

 明日からは『はじめての「教行信証」』。
 思想や宗教は日々の暮らしの中に生きてこそ意味があります。思想や宗教が今日をどう生き、明日をどう展望するかということと無縁なら、単なるアクセサリーとしての価値しかありません。この姿勢を保ちながら、いよいよ親鸞の主著『教行信証』に挑みたいと思います。親鸞とともに「あひがたくしていまあふことをえたり。ききがたくしてすでにきくことをえた」ことを喜びたい。

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