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修証一等 [『一念多念文意』を読む(その111)]

(3)修証一等

 道元は、「この坐禅の行は、いまだ仏法を証会(しょうえ)せざらんものは、坐禅弁道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん」(まだ悟りをひらいていないものは坐禅して悟りをめざすべきだが、すでに悟りをひらいたものは坐禅することにどんな意味があるのか)と問い、それに対してこう答えます、「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり」(そんなふうに疑問に思うのは、坐禅の修行と悟りの証果を別と考えるからで、それは仏法ではない)と。
 仏法では修と証はひとつである(修証一等)と言うのです。
 そしてこう言います、「すでに修の証なれば、証にきは(際)なく、証の修なれば、修にはじめなし」(すでに修がそのまま証なのだから、証におわりはなく、証がそのまま修なのだから、修にはじめはない)と。ぼくらはともすると悟りをひらくために坐善をすると考えますが、そうしますと悟りをめざして修行を積む時期と悟りをひらいたあととが分かれます。こうして修にはじまり、証におわることになるのですが、しかし、修がそのまま証ですから、どこまでいっても証におわりがあるわけではなく、証がそのまま修ですから、修はそのはじめからすでにおわり(証)を孕んでいるのです。
 また『スッタニパータ』ですが、「自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう」という文が出てきまして、これに関連して、中村元氏が興味深い解説をしてくれます。「この文章から見るかぎり、安らぎを実現するために学ぶことがニルヴァーナであり、ニルヴァーナとは学びつつ(実践しつつ)あることにほかならない」と。つまり学び修行することの遠い先にニルヴァーナがあるのではなく、学び修行することがニルヴァーナなのだというのです。

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