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「『おふみ』を読む」その14 ブログトップ

第1帖・第2通の前段 [「『おふみ』を読む」その14]

第2回 第1帖・第2通、第3通

(1)  第1帖・第2通の前段

当流、親鸞聖人の一義(いちぎ)は、あながちに出家発心(ほっしん)のかたちを(ぼん)とせず、捨家棄(しゃけき)(よく)のすがたを(ひょう)せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定(けつじょう)せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。されば、この信をえたるを、『経』には「(そく)(とく)往生(おうじょう)(じゅう)不退転(ふたいてん)」ととき、釈には「一念発起入正定之聚(いちねんぽっきにゅうしょうじょうしじゅ)」ともいり。これすなわち不来迎の談、平生業(へいぜいごう)(じょう)の義なり。

(現代語訳) わが門流、親鸞聖人の浄土真宗においては、必ずしも出家して僧となることを求めるわけではありませんし、家を捨て欲を捨てなければならないと説くものでもありません。ただ一念、他力に帰命するこころの定まることが肝要であり、それには男女の別、老少の差は何も関係ありません。そして、この信心をえたことを『無量寿経』では「即得往生、住不退転(そのとき往生することができ、不退転の身となる)」と説いていますし、また曇鸞はそれを注釈して「一念発起、入正定之聚(一念、帰命の心がおこれば、そのとき正定聚のくらいにつく)」と述べています。これが「不来迎」、つまり臨終の来迎をまつことはないという教えであり、また「平生業成」、つまり信心が定まったそのときに往生も定まるという教えです。

ここにはきわめてコンパクトに親鸞の「現生正定聚」の教えがまとめられています。ただ、それだけに、これをはじめて聞く人にはいったいどういうことだろうと雲をつかむような心持にさせるのではないでしょうか。そこで僭越ながら、蓮如の言わんとするところを蓮如に代わって解説していきましょう。


タグ:親鸞を読む
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