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かたちもましまさぬ [「『正信偈』ふたたび」その12]

(3)かたちもましまさぬ

さてしかしここで発想を逆転させ、まず「体」があって、その「用」があるのではなく、まず何らかの「用」があって、それには「体」があるかのように思っていると考えてみてはどうでしょう。何らかの「用」があるとき、その「体」があるかどうかは分かりませんが、どういうわけかそれがあるものと「仮定」しているということです。「体」があるからその「用」があるのではなく(したがって「用」があれば、かならず「体」があるのではなく)、「用」があるからその「体」があるかのごとく「仮構」しているだけだということです。「用」だけあって、その「体」がなくても一向にかまわないのですが、一応「体」があるとしておこうということです。このように発想を転換することで、世界の見え方が大きく変わってきます。

さて「無量のいのちの仏」すなわち「阿弥陀仏」ですが、まずそのようによばれる仏がいて、その仏には生きとし生けるものを救いたいという願い(本願)があると考えるのではなく、逆に、まず生きとし生けるものを漏れなく救いたいという願いがあり、それが自分の身にはたらきかけているのが感じられるから、そのようなはたらきをしている仏がいると考えるということです。そのような仏がほんとうにいるかどうかは分かりませんが、いると仮定しているということです。大事なのは、生きとし生けるものをみな例外なく救わんとする大いなる願いがあり、それが自分にはたらきかけていると感じられることで、それが感じられたとき、そこに阿弥陀仏がいるのです。

われらは普通、まず阿弥陀仏がいて、その阿弥陀仏に本願のはたらきがあると思います。しかし実は、まず本願のはたらきがあり、そのはたらきをしているものを阿弥陀仏とよんでいるのです。最晩年の親鸞はそのことをこんなふうに述べています、「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然と申すなり。…かたちもましまさぬやう(様)をしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料(手立て)なり」(『末燈鈔』第5通)と。これは聞き書きで、そこから繰り返しが多くなるのですが、言わんとしていることは、阿弥陀仏とは「かたちもましまさぬ」ということ、かたちある実体ではないということです。それはある不思議な「はたらき」であり、その「はたらき」を仮に阿弥陀仏とよんでいるということです。


タグ:親鸞を読む
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