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名号は「こえ」 [『教行信証』「信巻」を読む(その115)]

(7)名号は「こえ」

「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」は、名号の「こえ」となってわれらのもとに届けられ、その「こえ」を聞くことにより、われらに信心歓喜(信楽、浄信)が生まれるということが明らかになりました。「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」は一点の曇りもない澄みきった心ですが、それが南無阿弥陀仏の「こえ」となってわれらのもとにやってきて信心歓喜となるのです。さて南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえるということ、第十八願成就文では「その名号を聞きて」と言われるのはどういうことか、これを考えておかなければなりません。

どの本を読みましても「その名号を聞きて」を「名号のいわれを聞いて」と解釈しています。「いわれ」とは「わけ」とか「由来」という意味ですから、「名号のいわれ」とは「名号の意味するところ」、「名号が生まれてきた経緯」ということでしょう。親鸞は「行巻」の「六字釈」において、南無阿弥陀仏は「本願招喚の勅命」であると教えてくれましたが、これが名号の「いわれ」です。さてしかし成就文には「名号を聞きて」と書いてあり、そしてそれは、すぐ前のところで見ましたように、十方諸仏が弥陀の名を称える(たたえる、とともに、となえる)のを聞くことですから、それはまさに「南無阿弥陀仏のこえ」を聞くこととしか考えられません。「名号のこえを聞く」ことと「名号のいわれを聞く」ことはまったく別のことです。

さてではどうして「名号のいわれを聞く」と言われるのでしょう。おそらく「南無阿弥陀仏のこえ」がいきなり聞こえてくるというのは如何にも不自然だと感じられるからでしょう。確かに、突然そらから「南無阿弥陀仏のこえ」が聞こえてくるわけではありません。浄土の教えについて書かれた書物を読み、名号のいわれを「よきひと」から聞かせていただいたりするなかで、それを通して名号の「こえ」が聞こえることになります。しかし、繰り返しになりますが、名号のいわれを聞くことと、名号の「こえ」が聞こえることはまったく別であり、どれだけ名号のいわれを聞いても、それで名号の「こえ」を聞いたことにはなりません。


タグ:親鸞を読む
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