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信心か念仏か(第11章) [『歎異抄』ふたたび(その95)]

(6)信心か念仏か(第11章)


   さて第10章の「念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議のゆゑにと仰せ候ひき」のあと、後半の「歎異篇」がはじまり、「上人の仰せにあらざる異義ども」が8章にわたって批判されていきますが、第13章を除き(これは次回にとっておきます)、あとはかいつまんで要約していこうと思います。


まずは第11章、「一文不通のともがらの念仏申すにあうて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるかといひおどろかして、…ひとのこころをまどはす」異義について。


「本願か名号か」ということで、これはこれ以後のすべての異義に共通すると言うことができますが、信心と念仏のいずれを取るかを問うというパターンになっています。すでに法然門下において一念義と多念義の対立がありましたが、この争いの本質は「信か行か」ということです。信と行を対立させ、汝は信をとるか、あるいは行をとるかと迫るのです(一念義は信を、多念義は行をとります)。


これに対する親鸞の答えはこれまた手紙のなかにはっきりと示されています。


「さては仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また信をはなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり」(『末燈鈔』第11通)と。


最後の一文にすべてが尽くされています。本願の声(「南無阿弥陀仏」の声)が聞こえることが信(聞名)であり、その声にこだまするように応答するのが行(称名)ですから、どちらも本願のはたらきによるのであり、このふたつはふたつにしてひとつだということです。



タグ:親鸞を読む
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