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グーの音も出ない [はじめての『高僧和讃』(その25)]

(8)グーの音も出ない

 そして、浄土の教えとの関係で問題となることですが、「こころ」をめぐる真実にどのようにして気づくことができるかという点も気がかりなところです。いかにして「こころ」のありようを明らかにすることができるのか。「こころ」が「こころ」を探るのはいいとして、その無意識の深層にまでどうアクセスできるのでしょうか。フロイトやユングの深層心理学においては夢や精神病理といったものを手がかりに無意識層に探針を下ろしますが、唯識では瑜伽(ヨーガ)が持ち出されます。深い瞑想に入ることで、普通は意識できない深層に光をあてることができるということです。
 しかし深層には「我癡・我見・我慢・我愛」があるとされるのです。それをいかにして自ら明らかにすることができるのか。
 「自ら」というところが問題です。ぼくら自身が一生懸命に見ないように目隠ししているはずの「我癡・我見・我慢・我愛」を、どうしてぼくら自身が「自ら」明らかにできるでしょう。たとえ「ぼくは我執が強くて」と言うとしても、その言外に、「こんなふうに言えるということは、それほど我執が強くないのだ」と匂わしているのです。心の底からそう思っている人はただうなだれるだけでしょう。そして心底そう思うのは、どこかから「汝は聖人君子のような顔をしても、そのこころは蛇蝎と同じではないか」と刃のようなことばを突きつけられるときです。そんなときもうグーの音も出ない。そして、不思議なるかな、そのときに弥陀の弘誓が姿をあらわすのです。
 唯識の天親がどうして「弥陀の弘誓をすすめ」ることになるのかについて長々と考えてきました。まえに龍樹について、『般若経』の厳しい研鑽を通じて空の境地に至ることができたが、そこに出てみると、何のことはない、これは『無量寿経』が説いている念仏の喜びと同じところではないかと思ったに違いないと述べましたが(第1回―9)、天親も同じではないでしょうか。兄の無着とともに唯識の道を歩むうちに、ある境地に至ることができたが、それは『無量寿経』が説いている世界と同じであると気づき、その思いを『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』のことです)に著したのだと思うのです。

タグ:親鸞を読む
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