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「たまたま」日本人に [「親鸞とともに」その67]

(10)「たまたま」日本人に

話を具体化しましょう。ぼくは日本人として生まれましたが、これは「そうなるべくしてなった」のでしょうか、それとも「たまたま」のことでしょうか。

ぼくが日本人の両親から生まれたということで言えば、ぼくが日本人であるのは必然ですが、さてしかし、ぼくの両親が日本人であることは必然でしょうか。ここで意見が分かれるでしょう。日本人の父Aと日本人の母Bが巡り合ったことでぼくが生まれたのですから、ぼくが日本人の両親から生まれたのは必然であると言うことができます。さらに日本人の父Aと日本人の母Bが廻りあうこともまたその因があり、必然です。かくしてこの必然的な因果の系列のなかで、ぼくが日本人として生まれたのは「そうなるべくしてなった」と言わなければなりません。

さて反論です。ぼくは確かに日本人の父Aと日本人の母Bの間から生まれましたが、しかしこの両親から生まれたこと自体は必ずしもそうでなければならない理由はありません。ぼくでなくて別の誰かが生まれても一向に差し支えはなく、またぼくは中国人の父Cと中国人の母Dから生まれたとしても何もおかしくありません。かくしてぼくの両親が日本人であることは「たまたま」であり、したがってぼくが日本人であることも「たまたま」のことです。

このように一方では、ぼくが日本人であるのは必然であると言えますし、しかし他方では、ぼくは「たまたま」日本人だとも言えますが、この違いはどこからくるのでしょう。ぼくが父母から生まれたという因果を「異時因果」と見るか「同時因果」と見るかということに行きつきます。父母という因とぼくという果を「異時」と見るか「同時」と見るかということですが、前者は父母が原因となって、ぼくという結果が生まれたと見ることで、因と果を時間的に前後に配列します。これは当たり前のことで何の説明も要りませんが、さて父母という因とぼくという果が同時であるとはどういうことでしょう。


タグ:親鸞を読む
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