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ヨブ [『一念多念文意』を読む(その169)]

(3)ヨブ

 カントは、「ものごとにはかならず原因がある」ということは、われらに「与えられている(gegeben)」のでなく、「課せられている(aufgegeben)」のだと言います。
 そのように見るべく課せられているというのですが、では、なぜそんなふうに課せられているのか。普段の生活の中で考えてみましょう。好都合なことが起こったときには「どうして?」とはあまり思わないかもしれませんが、不都合なことが起こったら何が原因かと考えざるをえません。
 飛行機が墜落して大勢の人が亡くなったようなとき、すぐさまその原因の追究が行われます。そんなときに「原因が存在しない」ということは思いもよりません。誰かが「原因などないかもしれない」などと言おうものなら、周りから(とりわけ犠牲者の遺族から)袋叩きにあうでしょう。
 『ヨブ記』という『旧約聖書』に入っている話を思い起こします。
 ヨブは「そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざか」り、そして「男の子七人と女の子三人があり、その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭」というように富み栄えていました。あるとき神がサタンに「ヨブほどの義人はいない」と言いますと、サタンは「いや、それはヨブが幸せだからで、もし彼の所有物を奪ってごらんなさい、彼はあなたを呪うでしょう」と答えます。
 そこで神はヨブをサタンの手に委ね、ヨブは何の罪もないのにすべての所有物(子どもたちと家畜)を瞬く間に奪われてしまいます。さらには足の裏から頭の頂まで、いやな腫物ができ、「ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった」のです。何という仕打ちでしょう。ヨブの妻は「神を呪って死になさい」というのですが、それに対してヨブは驚くべき答えをするのです。

タグ:親鸞を読む
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