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『観無量寿経』精読(その30) ブログトップ

getとawake [『観無量寿経』精読(その30)]

(4)getとawake

 「さとる」は「悟る」とも「覚る」とも書きます。「悟る」はgetに近いと言えますが、「覚る」となりますとawakeがふさわしく、眠りから目覚めるというイメージです。
 釈迦は菩提樹の下で、これまで真理をgetしようと苦闘してきたが、ことごとく失敗に終わったことについてじっと内省したに違いありません。そのとき彼にある気づきが訪れたと思われます、これまで真理はgetするものだと思い込んでいたが、そのこと自体に問題があるのだと。真理にはこちらからgetしなければならないものもあるが、いや、大半はそういうものだろうが、しかし、いま必要な真理(生死の迷いから抜け出るのに必要な真理)はこちらからgetしようとしてもできない体のものであり、getしようとすればするほど遠ざかるのだと気づいたのではないでしょうか。むしろ真理は向こうからやってきて、あるときわれらがそれにgetされるのだと。
 われらが真理をgetするのではなく、真理がわれらをgetするのだということです。
 向こうからやってきた真理がわれらをgetするとはどういうことかと言いますと、ある声が「聞こえる」ということです。向こうからある声がやってきて、それがわれらに聞こえたとき、有無を言わさずわれらをgetするのです、われらをgraspしてしまうのです。これが目覚めるということ、awakeの経験です。このように真理がわれらをgetすることがawakeの経験ですが、われらが真理をgetするのではなく、真理がわれらをgetするのだと気づくこと自体がひとつのawakeの経験です。釈迦は菩提樹の下でこのawakeの経験をしたに違いありません。そしてgetとawakeの違いについて思いを廻らすなかで、無我ということに思い至ったと思われます。
 われらが真理をgetするということは、まず「われ」があるということです。しかる後に真理を「わがもの」とする、これがgetするということです。それに対して真理にawakeする(気づく)というのは、まず真理がわれらをawakeさせる(目覚めさせる)ということで、そのとき「われ」はまだ姿をあらわしてしません。awakeの経験があって、しかる後にはじめて「われ」が登場してきます。getにおいては「われ」がgetに先行しますが、awakeにおいては「われ」はawakeに遅れをとるのです。まず「われ」がある(「われ思う、ゆえにわれあり」)というのは思い込みだということ、これが無我ということです。

タグ:親鸞を読む
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