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主と従 [『教行信証』精読2(その106)]

(19)主と従

 自力の譬えはよく分かりますが、肝心の他力の譬えはいまひとつピンときません。いちばんの難点は「輪転王の行くにしたがへば」という言い回しで、これではわれらが輪転王の御幸に随うことによって意識的にその力を利用していることになります。この関係はわれらが輪転王に随うのですから、一見したところでは輪転王が主でわれらが従のようですが、われらが輪転王の力を利用しているということからすれば、実はわれらが主で輪転王は従となっています。これは本当の他力ではありません。
 本当の他力の場合、一見したところではわれらが主であるかのようで、実は他力が主でわれらはそのお蔭をこうむっているのです。
 『浄土論』は、一読したところでは、菩薩が五念門を修めることによって、ついには阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の悟り)にいたることができると説かれているように思えますが、実のところ(「まことにその本を求むれば」)如来の本願力がはたらいているがゆえに速やかに阿耨多羅三藐三菩提にいたることができると曇鸞は読んだのでした。そしてこれが他力ということだと教えてくれました。自分でなしているように思っているが、実は見えない力でなさしめられている、これが他力だと。
 他力は、それに気づいたときにはもうすでにはたらいているのです、否応なくそのなかにいるのです。
 しばしば他力に乗ずると言います。ここでは「他力の乗ずべきをききて、まさに信心を生ずべし」とあります。この言い方はしかし、「これが大悲の願船か。これに乗ると菩提に至れるというから、急いで乗り込もう」というように受け取られかねません。これではわれらが大悲の願船を利用することになります。われらが主で願船は従となります。しかし大悲の願船は、それに気づいたときには、もうすでにその上にいるのです。もうずっとむかしから大悲の願船に乗せてもらっていたのにこれまでまったく気づかず、いまそれに気づいた。このとき願船が主でわれらは従です。
 他力はそれに気づくことではじめてその姿を現すのです。

タグ:親鸞を読む
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