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信はよく永く煩悩の本を滅す [『教行信証』「信巻」を読む(その125)]

(5)信はよく永く煩悩の本を滅す

ここには多くの信の功徳が上げられていますが、そのなかで取り上げたいのが「信はよく永く煩悩の本を滅す」ということです。

「正信偈」に「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり」とあります。「一念喜愛の心」とは信心のことですから、信心がおこれば煩悩を滅することなく「涅槃の門」に入ることができるということです。この「不断煩悩得涅槃」は曇鸞『論註』の「不断煩悩得涅槃分」がその本となっていますが、「涅槃分」と言われるのは「涅槃そのもの」ではなく、「涅槃の門」ということです(『高僧和讃』の「曇鸞讃」に「四論の講説さしおきて 本願他力をときたまひ 具縛の凡愚をみちびきて 涅槃のかど(門)にぞいらしめし」とあります)。煩悩を滅することが涅槃に入ることに他なりませんから、煩悩のままで「涅槃そのもの」に入ることはできませんが、しかし信心がおこることで「涅槃の門」に入ることができるというのです。

しかし、どうして信心がおこることで、涅槃そのものに入ることはないものの、涅槃の門に入ることができるのでしょう。それはここにありますように「信はよく永く煩悩の本を滅す」からです。信は煩悩そのものを滅すことはできませんから、涅槃そのものに入ることはできませんが、煩悩の本を滅しますから、涅槃の門に入ることができるのです。さて煩悩の本とは何か。それは「わたしのいのち」への囚われです。ただひたすら「わたしのいのち」しかなく、「わたし」が「わたしのいのち」を主宰しているという思い込みです。これが本となり、あらゆる煩悩が群がり起ってきますが、本願は「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」を主宰していることに気づかせてくれます。この気づきが信であり、これが起これば煩悩の本は断ち切られます。

本願の信が起こっても「わたしのいのち」はつづきますから、煩悩そのものが消えることはありません。しかし信を得た人は「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」に生かされていることに気づいていますから、煩悩の本はもうすでに断ち切られています。ですから「わたしのいのち」(煩悩)を生きながら、同時に「ほとけのいのち」(涅槃)を生きることができるのです。


タグ:親鸞を読む
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