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目的意識 [正信偈と現代(その65)]

(3)目的意識

 別に目的意識なんてないよ、ただ、したいからしているだけさ、と言われるかもしれません。つきつめれば、真実はそのあたりにあるのでしょう。
 呆けないように囲碁をするとしても、さらに、呆けないようにするのは何のためと問われると答えに窮します。採れたての野菜を食べるために家庭菜園をするとしても、何のために採れたての野菜を食べるかと問われると、食べたいからとしか答えることはできません。健康維持のためにウォーキングをするというのも、何のために健康維持するのかとなりますと、生きるためさというところにいきます。結局、生きるために生きているのであり、そうしたいから、そうしているのです。
 そんなふうに、生きるために生きているのは確かですが、ぼくらはそこに何か目的意識をもちこまざるをえないところがあります。
 ぼくは車が好きで、スカッと晴れた日などはどこかにドライブしたくなります。ただドライブしたいからドライブするのですが、でも目的地もなく、やみくもにドライブするわけにはいきません。とりあえずであっても、どこそこへ行こうと決めませんと車を走らせることはできません。そのように、ただ生きたいから生きているのですが、そのことは何かの目的意識をもつことと矛盾しないどころか、生きる上で、どんな些細なことであっても目的意識をもつことは欠かせません。
 さて、目的意識は「AをするのはBを手に入れるため」というかたちになります。囲碁をするのは呆けない頭を手に入れるためであり、家庭菜園をするのは新鮮な野菜を手に入れるためであり、ウォーキングをするのは健康な身体を手に入れるため、といった具合で、ぼくらが生きるということは、何かを手に入れることで埋め尽くされています。生きることはあれやこれやを手に入れることである、と言えそうです。

タグ:親鸞を読む
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