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「ほとけのいのち」として生きる [『教行信証』「信巻」を読む(その122)]

(2)「ほとけのいのち」として生きる

しかし、煩悩具足の凡夫が信心を得ると「如来と等し」というのは、まさに驚天動地と言わなければなりません、不可称・不可説・不可思議です。

実際、この教説は関東の弟子衆のなかに疑問を呼び起こし、彼らは京都の親鸞にしばしば問い合わせたようで、それに答える手紙が何通も残されています。たとえば『末燈鈔』第3通にはこうあります、「浄土の真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こころはすでに如来とひとしければ、如来とひとしとまふすこともあるべし」。同第4通ではここで引用されている文について、「華厳経にのたまはく、信心歓喜者与諸如来等といふは、信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとしといふなり」と述べています。さらに同第7通には「このこころ(信のこころ)のさだまるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆへに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申なり」とあります。

「信心の人は如来とひとし」ということを考えるためには、あらためて信心をえるとはどういうことかというところに立ち返らなければなりません。

それは本願のはたらき(本願力)をわが身の上に生き生きと感受することであり、わが身は「ほとけのいのち」に包まれ、そのなかで生かされていると感受することです。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかに包まれ、すでに「ほとけのいのち」として生きていると感じることです。一方では依然として「わたしのいのち」として生きていますから、「この身こそあさましき不浄造悪の身」ですが、同時にもう「ほとけのいのち」として生きているのですから、「こころはすでに如来とひとし」ということになります。これが「正信偈」の曇鸞讃に「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ(惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃)」と言われていることです。

このように感じることができさえすれば、「その心の所楽に随ひて、あまねくみな満足」することができ、もうそれ以上に何も必要ありません。


タグ:親鸞を読む
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