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本願力の回向の大信心海 [『教行信証』「信巻」を読む(その145)]

(4)本願力の回向の大信心海

次に「四五寸」について、これはわれらの無明煩悩を指し、そのただなかに白道すなわち清浄の願心が生まれるのだと言われます。この願心は金剛のような心で、もはやいかなることがあっても「破壊すべからず」ですが、その根拠は一にかかって「本願力の回向の大信心海なるがゆゑに」であるということ、このことについてあらためて思いを致したいと思います。われらのなかに起こった願心、欲生心は、間違いなくわれら「に」起こりますが、しかしわれら「が」起こしたものではなく、本願力が起こしたということ、このことです。

「いのち、みな生きらるべし」という如来の「ねがい」(本願)が、「南無阿弥陀仏」という「こえ」となってわれらの心に届きますが、それは如来の「ねがい」という火がわれらの心という木につくようなもので、一旦ついた火はもう木から離れることなく、だから木をよく焼き、そうして木は火となります。この曇鸞の譬えは、如来の「ねがい」という火がわれらの心について、われらの心を焼き、われらの願心となるという経緯をみごとに表現してくれます。このようにわれらの願心は、如来の願心がその元ですから、もうどんなことがあろうとも「破壊すべからず」と言わなければなりません。

ところで如来の「ねがい」がやってくると言い、すぐ前では如来の「ことば」がやってくるという言い方をしましたが、このように言いますと、いかにもどこかに如来なる人格が実体として存在するかのようです。しかし「かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」という親鸞最晩年のことば(いわゆる自然法爾章)を思い返さなければなりません。「自然のやう」とはわれらに及んでいる不可思議な「はたらき」のことです。弥陀仏という実体がどこかに存在しているのではありません、「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい(本願)」をさして弥陀仏とよんでいるだけです。「はじめに弥陀仏ありき」ではありません、「はじめにねがいありき」です。


タグ:親鸞を読む
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