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罪に穢れた身のままで救われている [『教行信証』精読2(その53)]

(21)罪に穢れた身のままで救われている

 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」と親鸞は言います(「信巻」)。信心とは聞名(むこうから名号が聞こえること)であり、念仏とは称名(こだまのように名号を称えること)ですが、聞名があればかならず称名があるが、称名があるからといって、かならずしも聞名があるわけではない、ということです。聞名がないのに、称名するとき、その称名は呪文となります。これを頭において念仏と滅罪について考えるとどうなるでしょう。
 念仏することによりこれまでの罪がリセットされ、罪に穢れた身がまっさらの身になるわけではありません、罪に穢れた身はそのままです。では滅罪とは何か。
 聞名のとき何が起こるか、その現場に立ち返りましょう。それを表現することばはいろいろあります。まずは摂取不捨、そして正定聚不退、さらには即得往生。どれも深い安心の境地をあらわしていますが、それをぼく流に言い換えますと、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに思い至るということです。「このいのち」は、このままでもう「ほとけのいのち」なのだと思うとき、深い安堵が与えられます。あゝ、このいのちのままでもう救われているのだという安堵。
 罪に穢れた身のままで救われていると思えること、罪に穢れた身のままで生きていていいのだと思えること、これが滅罪です。
 『歎異抄』第1章に「しかれば本願を信ぜんには(信じたからには)、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに」とありますが、これが念仏による滅罪ということです。本願に遇うことができ、念仏の人となれたからは、もう「こんな悪人が救われるはずがない」と思いに脅かされることはなくなるというのです。こんな悪人が、悪人のまま救われるのです。これはもう罪が滅し、悪が消えたということではないでしょうか。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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