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三品の懺悔 [はじめての『高僧和讃』(その144)]

(14)三品の懺悔

 次の和讃です。

 「真心徹到(しんしんてっとう)するひとは 金剛心なりければ 三品(さんぼん)の懺悔(さんげ)するひとと ひとしと宗師(しゅうし)はのたまへり」(第75首)。
 「まことの信心つらぬけば、金剛心となるゆえに、三品懺悔するひとと、かわらぬひとと言われたり」。

 三品の懺悔について、善導は『往生礼讃』のなかでこう述べています。「懺悔に三品あり。上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔(もうく)のなかより血流れ、眼のなかより血いづるものを上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出で、眼のなかより血流るるものを中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹(とお)りて熱く、眼のなかより涙出づるものを下品の懺悔と名づく」。善導はこのような懺悔ができる人というのは「すなはちこれ久しく解脱分の善根を種(う)ゑたる人」であると言い、そしてこう付け加えるのです、「流涙(るるい)・流血(るけつ)にあたはずといへども、ただよく真心徹到するはすなはち上と同じ」と。
 弥陀の本願を信じることと全身で懺悔することは同じであるというのです。本願を信じることは煩悩を懺悔することであり、煩悩を懺悔することは本願を信じることであると。先に本願を信じるとは本願に目覚めることであり、その目覚めは他力によるということを見てきました。これは、「どうすれば」本願に目覚めることができるかという問いには答えられないということを意味します。どうすればもこうすればもなく、気づいたときにはもう目覚めているのですから。しかし「どんなときに」本願に目覚めるのかという問いには答えることができます。それは己れの煩悩を全身で懺悔するときです。
 善導の「三品の懺悔」からは、懺悔とは、ただ口だけではなく、全身でなすものであることを教えてもらえます。

タグ:親鸞を読む
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