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2月22日(火) [矛盾について(その208)]

 「先生、今日の授業おもしろかった」と、言わずにいられなかったから言っただけなのに、いや、そうだからこそ、そのことがぼくの「いる」ことを肯定してくれたのです。
 もし彼がぼくを喜ばせようとか、気を引こうとしてそう言ったとしますと、それはぼくの「する」ことに力を及ぼしたかもしれませんが、ぼくの「いる」ことが肯定されたとはちっとも感じなかったでしょう。どんなときにぼくの「いる」ことが肯定されたと感じ、どんな状況では感じないのかと問われても、うまく答えることはできませんが、言えるのは、「いる」ことが肯定されていると感じるときは、相手にそうしてあげようという思いは毛頭ないということです。もし相手にそうした気持ちが少しでもあれば、ぼくは残念ながら自分の「いる」ことが肯定されたと感じることができません。
 前に幽霊の比喩で述べました(174.幽霊は自分が「いる」ことを誰も認めてくれないから、「うらめしや」と出るのではないか)が、「いる」ことは誰かからそれを肯定してもらってはじめて確信することができます。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言うように自分が「いる」ことほど確かなことはありませんが、それはあくまで自分の内部でのことです。プラトンの「洞窟の比喩」ではありませんが、生まれてこの方、自分という洞窟の内部に閉じこめられていますと、外にまぶしい光の世界があることを知りません。洞窟の内部しか知らないのですから、そこが世界で、外部があることなど知る由もありません。外部からの働きかけがあってはじめて外部があることに気づき、ここは内部だと分かるのです。そしてそのときはじめて自分がほんとうに「いる」と確信できるのです。
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