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不可称不可説不可思議 [『歎異抄』ふたたび(その90)]

第10回 無義をもつて義とす



 (1) 不可称不可説不可思議



  「故親鸞聖人の御物語」の最後、第10章です。



念仏には無義をもつて義とす。不可称不可説不可思議(はかることも、ことばで説くことも、こころに思うこともできない)のゆゑにと仰せ候ひき。



前にも言いましたように(第4回)、第3章(悪人正機)とこの第10章だけが「仰せ候ひき」と締めくくられているのは、それ以外の章では親鸞自身の語ったことばが紹介されているのに対して、この二つの章では法然聖人がこのように仰せられたのをわたし親鸞がお聞きしたと述べているということです。親鸞が関東の弟子に書き送った手紙にも、しばしば法然聖人から「義なきを義とす」ということばを仰せつかったと述べられています。一つ例を上げますと『末燈鈔』の第7通にはこうあります。



また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏の御はからひなり。凡夫のはからひにあらず。補処(ふしょ、次に仏となる、の意)の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、「如来の誓願には義なきを義とす」とは、大師聖人(法然)の仰せに候ひき。



このように「義なきを義とす」ということばは法然が口ぐせのように言っていたことが分かりますが、この文はまた「義なきを義とす」の意味を明らかにしてくれます。義が二度でてきますが、前の義は「われらがあれこれとはからう」ことであり、後の義は「よろしい」ということ、したがって「義なきを義とす」とは、われらが本願念仏についてあれこれはからわないことがよろしいという意味になります。では「はからう」とはどういうことかといいますと、不可称不可説不可思議といわれていることから考えまして、「称」すなわち「はかりで量る」こと、「説」すなわち「ことばで語る」こと、そして「思議」すなわち「こころで思う」ことを指しています。



われらはつねに、これは善いことかどうかを思量し、これはどのように語るべきかを思案し、これはどう考えたらいいかと思議していますが、本願念仏についてはそのようなはからいは無用であり無益であるというのです。



タグ:親鸞を読む
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