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四海のうちみな兄弟 [「『証巻』を読む」その18]

(7)四海のうちみな兄弟

「四海のうちみな兄弟」や「世々生々の父母兄弟」ということばは、みんな分け隔てない「御同朋、御同行」であるということですが、ひいては一切の有情は切り離しがたくひとつにつながっているということも意味します。念仏を申すものだけが「四海のうちみな兄弟」としてつながっているのではありません、念仏を申そうが申すまいが、生きとし生けるものたちすべてが「世々生々の父母兄弟」としてひとつです。これが本願に遇うことができ、正定聚となったものの前に広がる新しい風光です。

本願に遇うまではただ「わたしのいのち」として生きるしかありませんから、一人ひとりがみなそれぞれ違うばかりでなく、ばらばらに切り離されていましたが、いまや「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」として生きていますから、「わたしのいのち」としてはこれまで同様それぞれでも、「ほとけのいのち」としてはひとつにつながっています。「ほとけのいのち」とはすべての「わたしのいのち」の無尽のつながりを意味しているのです。

「ほとけのいのち」と言いますと、どうしても「わたしのいのち」とは別にどこかに存在するものとしてイメージしてしまいますが、「ほとけのいのち」とは「無量のいのち(アミターユス)」ですから、それがもし「わたしのいのち」とは別にあるとしますと、もう「ほとけのいのち」ではないと言わなければなりません。では「無量のいのち」としての「ほとけのいのち」と「有量のいのち」としての「わたしのいのち」はどのような関係にあるのでしょうか。

これまでしばしば「ほとけのいのち」はあらゆる「わたしのいのち」を包み込む(摂取不捨する)という言い方をしてきましたが、「ほとけのいのち」をすべての「わたしのいのち」をそのなかに包み込む「容器」のようなものとイメージしますと、またしても「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」は別ものとなってしまいます。そうではなく、「ほとけのいのち」とはあらゆる「わたしのいのち」が無尽につながりあっているそのつながりそのものです。


タグ:親鸞を読む
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