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一心 [「親鸞とともに」その37]

(5)一心

ここで考えなければならないのは「信じる」とは何かということです。これは前にくわしく検討したことですが、その要諦を一言でいいますと、普通の信はわれらが何かに与えるものであるのに対して、本願名号の信は本願名号からわれらに与えられるものであるということです。さてしかし「信を与える」というのは分かりやすいですが、「信が与えられる」とはどういうことでしょう。これが浄土真宗で「たまわりたる信心」と言われることですが、その意味することをあらためて考えておきたいと思います。鍵となるのが「一心」ということばです。

天親は『浄土論』の冒頭で「世尊(釈迦です)、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と表明していますが、親鸞はこの「一心」に注目します。普通「一心」と言いますのは、他のことに心を向けることなく一つのことに集中するという意味ですが、親鸞はここに本願の信心の本質があると見て、それはわれらの心と如来の心(それが本願に他なりません)がひとつになることだと言うのです。こちらにわれらの心があり、あちらに如来の心があって、われらの心が如来の心を信じるというのではなく、如来の心がわれらの心にやってきて、ひとつの心になること、これが一心です。

こちらにあるわれらの心があちらの如来の心を信じるというのは、われらが「信を与える」ということですが、如来の心がわれらの心にやってきて、ひとつの心になること、これが「信が与えられる」ということです。そのときわれらの心は如来の心(本願)になっていて、われらの信心と如来の本願があるのではなく、信心となった本願、本願となった信心があるだけです。ですから、如来の本願とは何かと問われたら、それはわれらの信心であると答えるしかなく、われらの信心とは何かと問われたら,それは如来の本願であると答えるしかありません。

ところで『浄土論』という書物ですが、親鸞は上に述べた意味での「一心」の立場でこの書を読みますから、普通の読みとはまったく別の世界が展開することになります。ちょっと横道に入ることになるかもしれませんが、ここに親鸞浄土教の特徴がよく出ていますから見ておきましょう。


タグ:親鸞を読む
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