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平生業成 [「『おふみ』を読む」その17]

(4)平生業成

信心のさだまるとき往生またさだまるなり」、これが平生業成(へいぜいごうじょう)の教えです。往生が定まるのは臨終のときではなく、信心の定まる平生である、というのですが、これの意味することは巨大であると言わなければなりません。誤解をおそれずに言えば、これまでの「厭離穢土(おんりえど)」に代わって「欣求穢土(ごんぐえど)」になるのです。ニーチェは「これが生きるということか、ならばもう一度」と言いましたが(『ツァラツストラかく語りき』)、そのように、信心が定まったとき「これが穢土か、ならばもう一度」となるのです。

本願に遇うことができたとき、何がおこるか。

ここが穢土であることがはっきり見えるようになります。それまでも生きることの苦しさはいやと言うほど感じてきました。それを何とかしようともがいてきた。でもそれはここが穢土であるという明確な自覚ではありません。ただ苦しさにもがいていただけです。ところが本願に遇うことで、その苦しさの正体が目の前につきつけられます。それは己のうちに巣くう煩悩であるということです。いや、これではまだ言い足りません、これでは己のうちには煩悩以外もあるような響きがあります。そうではなく己は煩悩そのものであるということ、これが「ここは穢土である」ということの内実です。

さて本願に遇うとき、ここが穢土であることがはっきり見えるようになるだけでしょうか。もしそうでしたら、この教えはただの絶望の教えと言わなければなりません。しかし心配ご無用、この教えは「本願」の教えです。聞こえるのは本願の声です。その声は「煩悩そのものであるおまえを救おう」と招喚しているのです。これが「往生またさだまる」ということです。「ここは穢土である」という絶望は、そのままで「ここはすでに浄土である」という希望に他なりません。「即得往生 住不退転(すなはち往生をえ、不退転に住せん)」です。


タグ:親鸞を読む
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